第140  平成16年5月  

メンバーより一言  (大川 澄雄 ・  Sumio・Okawa
  ♪♪揃た出そろた 早苗がそろた 植えよ植えましょ 御国のために
          米は宝だ 宝の草を 植えりゃ黄金の 花が咲く♪♪

 いよいよ田植えのシーズンを迎えました。ところで、この「田植え唄」おそらくご存の方は少ないのではないかと思いますが、この季節になりますと自然に口ずさむ、そんな懐かしい昔の唄。確か小学校で習った唱歌で、田植えの季節になりますと、いつも皆で唄ったものでした。「田植え休み」なるものが学校から出まして、その時の嬉しかった事。決して仕事が好きと言う訳でもなかったのですが、学校が休みと言う無常?の喜びを感じたのでしょうか、でも懸命に「田植え」の手伝いをしたものでした。
 私には、やはりこの田植えの季節が一番、瑞穂の国にふさわしい原風景を感じます。それほどこの季節は長閑で何もかもが瑞々しい爽やかな季節、その中で始まる昔の田舎の田植えの風習、祭り、唄を含め、儀式に近いものがあった事を懐かしく想い出されます。

 そんな九州熊本の田舎で育った私でしたが、まさに近代農業を目的とした世紀の事業で完工致しました「八郎潟干拓」に入植を決意致しましたのが昭和45年、24歳でありましてサラリーマンを退職、一年間の訓練を終え、与えられた出来立ての圃場に立ったのでありました。まさに近代農業、種籾をヘリコプターで空からの直播にしたのですが、これが見事に失敗、この出来事がこれからの超苦労、末永く語り草となる始まりでした。

 広大な圃場、それに苗を作り手で植えることを与儀なくされたのであります。周辺の農家に苗作りを依頼し、苗取りまでお願いし、ダンプで苗を水田まで運んだのでありました。そして田植え、これが大変だったのです。手植えですから人の手しかありません。さあ、人夫さんのお願い、周辺の町にお願いに毎夜遅くまで駆け回り、そしてようやく20、30人確保出来たのでした。でも一枚の田の長さが150メートル、とても苗を腰にと言う量ではありません。それで小さな船を作り、それに載せて往復植えたのでありました。30人並んで植える様、まさに壮観でした。バスをチャーター百人を並べた人もいたそうです。推定ですがそのシーズンは周辺の町から日に4千人の人夫さんが大潟村に来たと言う事です。
 その頃はまだ小さい子供達、泣くのも構わずに車の中。人夫さんの車での送り迎えは、子供を抱いてもらって運転したものでした。30キロの道程を・・・・。

 あの苦労の思い出から35年、この静かな早苗田に立っておりますと、あの昔の騒がしかった華やかな?懐かしい田植えの風景が、まぼろしのように甦っては消えてゆき、思わずぽつんと涙で水面を揺らす、そんな朝でございました。

     
     早乙女の ささやく今朝や 眼裏に    こまちの里